第1期: アンドレ・シトロエンの時代 〜 ヨーロッパのヘンリー・フォード

1月 25, 2021 | シトロエンの歴史

ダブル・シェヴロン

シトロエンの歴史は、おおむね3期に分けることができる。

第1期は創業者アンドレ・シトロエンの時代で、1919年から1935年まで。

第2期は、ミシュランが親会社の時代で、1935年から1976年まで続いた。

第3期は、1976年にプジョーと合併して以降、こんにちまで。

である。と、とりあえずしておく。

プジョー・シトロエン連合のPSAは、フィアット・クライスラーのFCAと対等での統合を発表しているから、そうなるとシトロエンにとっても新章のはじまりということになるかもしれない。

オートモビル・シトロエンはなぜかくも独創的で、21世紀のこんにちもなお、独創的であり続けようとしているのか? それを理解するには創業者アンドレ・シトロエンについて知っておく必要がある。

アンドレ=ギュスタヴ・シトロエン(André-Gustave Citroën)は、フランスの技術エリート養成校エコール・ポリテクニークで学んだエンジニアではあったけれど、同時代のルイ・ルノーやフェルディナント・ポルシェ、W.O.ベントレーらとは異なり、自動車そのものに魅入られたひとではなかった。自動車を自分で運転しようとはしなかったし、自動車の図面をひくようなこともしなかった

アンドレは自動車を大量生産することによって、より多くのひとびとに移動の自由と経済的な富をもたらそうとした。“自動車王”ヘンリー・フォードが1908年に発売して大ヒットとなったT型フォードと、その生産方式に注目し、大量生産によってアメリカで花開いた大衆消費社会をフランスでも実現しようとした。いわゆる“フォーディズム”をヨーロッパで実践しようとしたのである。

1878年2月5日、ベル・エポックと呼ばれる黄金時代のパリで生まれたアンドレは、SFの祖ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』や『海底2万マイル』『80日間世界一周』に刺激され、1889年のパリ万博の目玉として建設されたエッフェル塔がニョキニョキと大空にのびていくのを仰ぎ見ながら育った。化学・電気・石油、鉄鋼などの分野で技術革新が進み、映画、蓄音器、そして自動車が発明され、20世紀に最盛期を迎える大量生産・大量消費の時代が始まろうとしていた。

学業優秀なアンドレがエンジニアをこころざし、エコール・ポリテクニークに進学したのは当然のことだった。ポリテクニークでの成績は下のほうだった。最愛の母親が病気になり、学業に身が入らなかったからだ。

1899年にその母が亡くなる。アンドレは母親の面影を求めて、母親の故郷のポーランドを訪ねる。このとき、とある工場で見せられたのが、木製の山型の歯車だった。

イギリスのシトロエン史家、ジョン・レイノルズによると、木製ではなくて、木製の鋳型を用いた鋳鉄製だったということだけれど、ともかくこの歯車をもっと品質のよい鉄で、高い精度にすれば、効率のよい優れたものができる! そうひらめいた彼は、この歯車の特許を取得する。

卒業後、技術将校として軍務に服したアンドレは、1904年、ふたりの友人たちと小さな工場を構え、その歯車をつくりはじめる。のちに“ダブル・シェヴロン”として知られる、シトロエンのマークのもととなる歯車である。

つくった砲弾が5万5000発

彼のダブル・ヘリカル・ギアはたちまち引き手あまたとなった。生産量を増やすために製造工程を改善し、最新の工作機械を導入する。同時に労働者の福祉についても充実を図った。歯医者と診療所、体育館、託児所を設け、もう少しあとのことになるけれど、女性労働者のために産休の制度をつくった。

アンドレの両親はふたりともユダヤ系移民で、5人兄弟の末っ子。父親は彼が6歳のときに事業の失敗を苦にして自殺していた。そのことが、残された家族にどんな影響を及ぼしたのかは不明ながら、平坦な道のりではなかったにちがいない。アンドレはこの時代の起業家としては珍しく、労働者と分け隔てなく接し、よい関係を築くことに積極的だった。

彼の歯車の買い手のなかに、モール(Mors)という自動車メーカーも含まれていた。アンドレは縁あって1908年にモールのCEOとなる。そして、歯車づくりで培った彼独自のノウハウを適用し、年産125台から1200台に増産することに成功する。

思い出してほしい。1908年はT型フォード発売の年である。アンドレはフォード生産方式のサルマネから始めたわけではなかった。

1914年、第一次大戦が勃発すると、予備役の大尉だったアンドレは軍に戻って砲兵隊に配属される。自分の隊が砲弾不足に陥っていることをすぐさま知るや、アンドレは彼独自の生産方式を砲弾の製造に適用する計画を立て、許可を得るや、すぐさま実行に移す。

軍から土地と資金を得たアンドレは、砲弾を1日に5万5000発生産し、やがて全フランス軍の軍需物資の責任者となって、勝利に貢献する。アンドレの砲弾づくりを担った労働者のほとんどが女性で、彼女たちのためにつくった制度のひとつが前述した産休だった。

タイプAからタイプCへ

平和が訪れると、砲弾はいらない。モールでの成功体験、そしてヘンリー・フォードに実際に面会したことで、アンドレは自動車が魅力的なビジネスだと思うにいたった。

1919年、アンドレは自身の名を冠した自動車メーカー、オートモビル・シトロエンを設立し、セーヌ川左岸のジャベル河岸に彼がつくった砲弾工場を自動車工場に転換した。

 アンドレの狙いは、ヨーロッパではまだ珍しかった小型の実用車を大量に生産し、安価に提供することだった。

最初のモデル、タイプA 10CVはごくオーソドックスな成り立ちで、1327ccの効率的な4気筒エンジンを搭載し、最高速度は65km/hに過ぎなかったけれど、電動スターターとライトも込みだった。なにより、当時のヨーロッパでは自動車メーカーはエンジン付きのシャシーだけを販売し、お客はそれを買って、ボディは好みのコーチ・ビルダーに注文するのが一般的だったから、ボディまでできあがって売られるタイプAは画期的だった。

 低価格のタイプAは大人気を博し、何千台ものオーダーを集めた。最初の年に2000台が生産され、翌年には8000台に増えた。消費者のニーズに合わせて、クーペ、セダン、配達用のヴァンなど、派生モデルを展開した。

タイプAを発展させたタイプBを経て、1922年には新型車のタイプC 5CVを発表。排気量856ccの、タイプAよりも小さなこの小型実用車によって、アンドレは自動車の普及を推進しようとした。

セールス・プロモーションはアンドレの得意とするところだった。フランス全国にディーラー網をつくり、確実に購入しそうなひとには試乗の機会を設けた。独自のローン制度を導入し、シトロエン・オウナーには低価格で保険を提供することも始めている。より多くのひとたちが自動車を購入できるようなアイディアを次々に打ち出した。 新聞に全面広告をうち、タクシーとしてまとまった数のクルマを走らせてシトロエンの存在を意識づけ、ダブル・シェヴロンのマーク入りの道路標識をつくってドライバーの便宜を図った。

翼よ! あれが巴里の灯だ

極めつけは、エッフェル塔に25万個の電灯をつけて、CITROËNの文字を輝かせたことだ。1925年から10年間、パリのシンボルは100メートル先からでも見える巨大な広告塔となった。

1927年、チャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行を成功させた際には、『翼よ! あれが巴里の灯だ』の灯台代わりとなった。

ということにして、アンドレはリンドバーグをジャベル河岸の工場に招き、全従業員出席のパーティを開いて、若きアメリカの英雄を歓待した。リンドバーグは、パリの空港に到着したとき、自分がどこにいるのか、わからなかったのだから。

アンドレは、広告・宣伝、現代風にいえば、マーケティングの天才だった。

大衆に夢を与えることに長けていた。

1922年には後輪をキャタピラ化したハーフトラック5台で、フランスの植民地だったサハラ砂漠を横断することに成功した。

もちろんアンドレ自身は参加していない。そこは彼の信頼する右腕、ジョルジュ・マリ・アールトに任せた。3200kmのサハラ砂漠を自動車で制覇せよ。というのはフランス政府から自動車メーカーへの提案で、それに初めて成功したのがシトロエンだった。

空間を時間によって征服することが自動車のひとつの使命である。と考えていたアンドレはその可能性を広げる次なる冒険旅行として、アフリカ大陸縦断を思いつく。「黒い巡洋艦隊」として知られているこのプロジェクトは、1924年10月28日に同様のハーフトラックを8台連ねて、アルジェリアを出発、9カ月を費やして2万4000kmを走破した。

隊員たちはそれまで地図もない暗黒大陸から、2万7000メートルにおよぶフィルムと8000枚の写真のほか、さまざまな標本を持ち帰った。このときの貴重な映像は、いまYouTubeで気軽に見ることができる。

1931年にはベイルートからヒマラヤを経て北京へといたるアジア横断も試みている。「黄色い巡洋艦隊」と呼ばれるこの探検旅行にも、アンドレ自身は参加していないけれど、アンドレなくしては実現できないものだった。

冬はチャップリン、夏はシャネル

オートモビル・シトロエンは10年でルノーとプジョーを足したフランスのメーカーの生産台数を追い越し、1929年には10万台以上を送り出した。この数字は世界で4番目、アメリカ合衆国以外では最大の自動車メーカーであることを意味した。

狂騒の20年代に大金持ちになった創業者のアンドレは、惜しむことなく豪奢な生活を送った。アンドレはギャンブル中毒といってよいほど、博打が好きだった。自動車会社で設けた富を、競馬、カジノで散財した。

父親不在の家庭で育った少年時代の反動によるものだったかもしれない。母の死をきっかけに、母の故郷でたまたまダブル・シェヴロンと巡り合ったことが彼の人生を大きく変えた。第1次大戦では前線にはいなかったものの、多くの友人、知人の死と向き合ったことだろう。

巷にはジャズが流れ、享楽的な都市文化が発達し、大衆消費、マス・メディアの時代が幕を開けようとしていた。イギリスではジェントルマン・ドライバーの集まりであるベントレー・ボーイズが活躍し、アメリカではF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が1925年に発売されている。

華麗なるギャツビーの時代、アンドレは家族そろって、冬の休暇はサン・モリッツで、チャーリー・チャップリンと過ごすのがつねだった。夏にはドーバー海峡に面した高級リゾート、ドーヴィルでヴィラを借り、パリからの友人たちをもてなした。ココ・シャネル、ジャズのシンガーで女優のジョセフィン・ベイカー、歌手で俳優のモーリス・シュヴァリエらが来客名簿に名を連ねた。当時のマスコミがアンドレの私生活を追いかけたというのも無理からぬものがある。 3人の子どもたちを喜ばせるために、アンドレは2分の1サイズの電動の最新シトロエンをプレゼントした。ドーヴィル警察の許可を得て、彼らは公道を走ることが許され、毎年開かれるドーヴィル自動車クラブのコンクール・デレガンスに彼らの小さな電動シトロエンで参加した。

トラクシオン・アヴァンのために

悲しいことに、よいときは続かなかった。1934年、アンドレが工場を建て直すことに決めたのは、革新的な新型車トラクシオン・アヴァンを生産するためだった。

前輪駆動そのものは世界初ではなかったけれど、それを大量生産するというのは初の試みだった。

それまで手堅い小型の実用車づくりを軸にし、“ヨーロッパのヘンリー・フォード”を自他共に認めてきたアンドレが、ここにいたって唐突に前人未到の前輪駆動の量産車を発売する気になったのか? 自動車史のミステリーのひとつだとされる。

なによりアンドレはギャンブラーだった。生産方式を見直し、新しい機械を導入することが最善の方法だと思っていた。すぐれたアイディアを思いついたら、金に糸目はつけない。それが彼のやり方だった。

悲しいことに、経済状況を読みちがえていた。このとき、1929年10月にアメリカから始まった大恐慌がフランスにも押し寄せていた。

1931年10月、アンドレは最新の知識を手に入れるべく、ヘンリー・フォードに会いにいく。すっかり弱気になっていたヘンリー・フォードに、「フランスは自信に満ちている」とアンドレは語った。実際、アンドレは自信に満ちていた。そうでなければ、「黄色い巡洋艦隊」を送ったりはしていない。

工場のリニューアルを決意したのは、ライバルのルノーが1932年に新工場を完成していたこともあった。

アンドレはトラクシオン・アヴァンにすべてを賭けた。

結局のところ、オートモビル・シトロエンは支払い不能と判定され、破綻した。経営は最大の債権者のミシュランに引き継がれた。アンドレは工場も運も、自分の名前を使う権利さえも失い、翌1935年、パリの病院で亡くなる。

アンドレなき後、トラクシオン・アヴァンは大きな成功をおさめ、第2次大戦による中断をはさんで、シトロエンは農村のための民具のようなベーシック・カーとして2CVを、1955年にはトラクシオン・アヴァンをモダン化した、かのDSを生み出す。

これら現在も、シトロエンといえばだれもがすぐに思い浮かべるシトロエン、多くのシトロエニストによって支持されている独創のかたまりたちは、ミシュラン家から経営を任されたピエール・ブーランジェ、トラクシオン・アヴァンからDSまでチーフ・エンジニアをつとめたアンドレ・ルフェーヴル、そしてデザイナーのフラミニオ・ベルトーニの3人がつくったものだ。 けれど、この3人にしたところで、アンドレ・シトロエンが示したヴィジョン、社会における、あるべき自動車の理想の姿というものがなければ、創造できなかったにちがいない。


続きはこちら

第2期: ミシュランの時代 〜アンドレ・ルフェーブルという天才がいた

第3期: PSA の時代 〜どっこいシトロエンは生き残った!

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